048・こんな子いるかな?? #集団ストーカー
集団ストーカーの酷い被害に遭っていると、
大変な状況に置かれることがよくありますね。
理不尽な目に遭うと、「やってられねー」と憤りたくもなるところですけれども、
視点を変えると、少しだけいいこともあります。
それは、人を見る目を養えるチャンスである、ということです。
ターゲットや他人が理不尽な目に遭い苦しんでいるとき、
それを見て、心配しているか、笑っているか。
他人のプライバシーに関わる内容を、何のデリカシーもなく笑い飛ばしたりできるのか。
嫉妬や完全な八つ当たりなど、自分のエゴのためだけに、何かしてきた訳でもない他人をいじめたりできるのか。
ターゲットに工作をしかけておいて、それが失敗したときにほっとしているか、悔しがっているか。
命令だろうがなんだろうが、他人が嫌がることを平気でできるかどうか。
他人が嫌がっていることを分かった上で、それでもしつこく続けてくるかどうか。
他人に迷惑をかけることをしておいて、ちゃんと謝れもしないとか。
「自分さえよければいい」「今がなんとかなればいい」という、刹那的で無責任な行動ばかりであるとか。
一方、自分が割を喰うと判りながらも、長期的な平和に繋げるために、自ら矢面に立てるような立派な人もいる。
しがらみから、やむを得ず工作に加担しなければならなくとも、ちゃんと相応のフォローを入れられる人もいる。
自分が大変な時であっても、他人の挙動というものは、案外冷静に見えているものです。
渦中においては、パニックの様で、把握しきれなかったとしても、
後から振り返った時などに、
「口先は達者で愛想はいいけど、実は無責任で下品なんだな」
「サイコパス、もしくはソシオパスなのかな」
「ああ、あの人は本当の意味で優しい人だったな」
「あの人のあの行動で助けられたな」
などと、しみじみと分かってくるものです。
誰しもが集団ストーカーに関わらざるをえない現在、
互いにやりあいをさせられている私たち(日本にいるほとんどの人たち)は、
誰しもがある意味では被害者ではありますが、
良心を忘れていないか(もともとない人も少しはいるのだろうが)
自己中心的、刹那的、短絡的な言動に陥っていないか、
そういったところで
人間であることをやめたものと、人間であり続けようとする人とを見分けることができるのかもしれませんね。